Webコミックサービスcomicoで連載中の『失格人間ハイジ』
小説家の夢に破れ、バイト先の書店に契約社員として就職した主人公「灰澤修治(ハイジ)」は、
恋愛や人生に様々なコンプレックスを抱える29歳。
夢と現実の狭間で揺れる微妙な世代をリアルに描いた当作品は、
同世代の若者から大きな共感を呼んでいます。

本作の作者で数ヶ月前までは、ハイジと同じ書店員として働いていた野中かをるさんに
作品への思いや、作品誕生の背景などについて伺いました。

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●学んだことや得たことは、絶対に形にしなくてはならない

―――『失格人間ハイジ』は、夢と現実の狭間で悩む同世代の共感を呼んでいますが、
なぜこの作品を描こうと思われたのですか?

野中さん: 以前の私は、漫画を描きながら、主人公のハイジと同様に書店で働いていました。
漫画は、電子書籍などで何作か発表しており、大ヒットしたわけではありませんが、
まずまずの評価をいただいていました。
だから、頑張れば漫画家を続けていけるのではないかと思っていたのですが、
その後、仕事が途絶えてしまい、青年誌や少年誌への持込を再開させましたがうまくいかず悩んでいました。
同時に書店員としての契約もあと1年と迫っており、崖っぷちだった頃、
comicoからオーディションのお話をいただきました。
20代後半の私は、年齢的に最後のチャンスかもしれないので、
自分のもっているすべての力をだせるよう、
もっとも得意とするものをテーマとした作品で勝負しようと決めました。
それが、人生に迷う29歳を描いた『失格人間ハイジ』でした。

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▲野中さん作の電子書籍『ためらい逢瀬』(ソニー・デジタルエンタテインメント)


―――作品では、書店や出版業界の舞台裏をリアルに描いています。
売れる本のノウハウなども惜しみなく披露されていますが、
これらもご経験からなのでしょうか?

野中さん: はい。書店員として4年半働いていており、ハイジと同じ理系の専門書を担当していました。
大学は文学部だったため、最初はまったく知らない分野ではありましたが、
本や出版業界について知ることができ、最新の情報が得られ、とても楽しかったです。
また、書店では、出版社の新人さんが研修に来られ、
私の上司が売れる本と売れない本の違いなどについて話をする機会が多々あったのですが、
これらを一緒に聞いて学ばせていただきました。


―――書店の経験は、野中さんにとって強力な武器ですね。

野中さん: はい。書店や出版社を舞台としているということもそうですが、
学生時代のアルバイトも接客業で、さらに本屋で働く前は和菓子屋の店長だったので、
店員とお客様との関係も自分にとっては、身近なテーマでした。


―――となると、ストーリーは、野中さんご自身の経験を描いているのですか?

野中さん: 実話というわけではありませんが、どのキャラクターのエピソードも3分の1は、
私自身のことを描いています。そして、3分の1は、特定のモデルがいます。
たとえば、ハイジの親友 嘉納は、大学の友人と職場の友人を足しており、
ハイジの職場の先輩は、私の上司だった人です。
また、ハイジが恋する一色の同僚は、版元の営業さん何人かのイメージを抽出してモデルにしました。
最後の3分の1は、読者の方に多い20代~30代の方のことを観察して描いています。

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▲野中かをるさん

―――ストーリーは、どこで生み出されているのですか?

野中さん: 外で考えることが多いですね。同世代の読者のみなさんを描きたいと思っているので、
喫茶店など人がいるところに行って、知らない人の会話を聞き、
ストーリーの参考にさせていただくことも多いです。
私は、漫画家は外に出なくてはいけないと思っています。
外に出ていろんなものを吸収して、インプットしたものをアウトプットする。
自分が知っている世界だけで作品を描いても、そこには必ず限界があります。
外に出ることは、漫画家だからこそしなくてはならない課題だと私は思っています。

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▲線画は、アナログで描いている。外出先で描くこともあるそう。


―――リアリティのあるストーリーを生むためには、
世の中を知ることが重要なのですね。

野中さん: そうですね。また、自分だけですべてを行おうとするのではなく、
周りのみなさんの意見を聞き、時には助けていただくことも大切だと思っています。
たとえば、16話で一色が熱をだして命からがら帰宅する場面がありますが、
私が最初に描いた一色の部屋は、コートがハンガーにかけられ、かばんも隅に置かれていました。
これを見たcomicoの担当の方から「一人暮らしの女性が、体調の悪いときにはそんなことはしない」
とのアドバイスをいただき、何人かの女性に取材をし、コートは脱ぎっぱなし、
かばんは投げ捨てられた状態のまま、一色をベッドに倒れこませることにしました。
また、同じく16話に一色が、田舎のお母さんと電話で話す場面がありますが、
私は、生まれも育ちも東京なので方言がまったくわかりません。
担当さんに相談して、秋田出身のスタッフさんを紹介していただき、秋田弁に翻訳をお願いしました。


―――細かいことまで、きっちり取材されているのですね。

野中さん: 他にも、取材目的ではない普段の外出が、そのまま漫画のネタにつながることも多いですよ。
たとえば、以前、comicoのスタッフさんとアボカド料理専門店で食事をしたことがあります。
私は、アボカドは好きですが、そのとき男性スタッフの方が
「アボカドってよくわからないな」と話していたので、「これは使える」と思い作品にとりいれました。
むしろ、取材目的でないほうが、視野が広がって思いもよらないことに気づきますね。 
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▲アボカドをワサビと間違えるハイジは、comico男性スタッフの発言がヒントとなっている。


―――もう野中さんの人生そのものが作品ですね。

野中さん: 私は、大学のとき卒論で失敗してしまった苦い過去があります。
太宰治の「パンドラの匣(はこ)」をテーマに選びましたが、
作品への思いが強すぎて自分の感情が前に出過ぎたものとなってしまい、
とても研究論文と呼べるものではありませんでした。
もちろん担当教授からも、「これを『論文』として認めることはできない」と否定されましたが、
最終的には「この作品、作者を扱ったことを将来の糧にできるのなら、卒業させる」と許していただきました。
この経験から私は、自分が学んだこと、得たことは絶対に形にしなくてはいけないという強い気持ちがあり、
そんな思いも作品に盛り込んでいます。
また、私は、太宰作品を「読者が主人公になれる」作品だと思っています。
自身のことや他人のことを題材にした退廃的で青臭い話が多いですが、
それが読者の隠していた本音や弱い部分であり共感を呼んでいます。
絶望的な話であっても常に前を向いており、私はそうした作品に救われてきました。
私もそんな作品を描いていきたいと思っています。

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▲失格人間ハイジ


●WEB漫画でなくては、できないことを追求していきたい

―――作品には、WEB漫画の特性を生かした技法を多数とりいれていらっしゃいます。
特に19話で披露した過去の回想を映画のフィルムにのせて表現する、
フィルムスクロールの技法は実に斬新でしたが、どのように考えられたのでしょうか?

野中さん: comicoは、すごく特徴的な形式ですよね。
だからこそ、私には、紙の媒体などではできない、
comicoでしかできないことをやりたいという思いがあります。
実は、19話を考えていたときは、ちょうどcomicoの担当の方に
お叱りをいただいた時期でもあって、自分にしかできないことを模索していました。
自分にしかできないことを突き詰めていくと、逆に自分ができないことと向き合うことになり、
それは、画力で勝負することでした。
私は、学校などで絵を学んだことはなく、師匠もいないため、ずっと絵にはコンプレックスがあります。
実際に色味が少ないため、クオリティが低いと評されることもありました。
でも、そこで突然色のクオリティを上げても、それでは「テコ入れされたんだ」と思われるだけですよね。
そこを逆手にとって何かできないか、シンプルな色合いだからこそできることがあるのではないかと思い
考え出したのが、月日が経過していく様子や、登場人物の感情を色で表現したあのフィルムスクロールでした。

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秀逸な心理描写が話題となった19話。


―――「こんな表現の仕方があるんだ」と驚いたと同時に、
ゾクゾクしたことを今でもはっきりと覚えています。

野中さん: WEB漫画は、カラーであることや縦スクロールなど特徴がはっきりとしているため、
向いていることもあれば、向いていないことも多々あります。
それを難しい部分と捉える方もいらっしゃいますが、
私は、逆にそういったしばりがあったほうが、やりやすいですね。
『失格人間ハイジ』では、これからもWEB漫画でしかできない表現方法を追求していきたいと思っています。


―――今、comico以外には、どんな活動をされていますか?

野中さん: 同人誌でも漫画を描いています。
こちらは、comicoとは反対に紙でしかできないことを極めていきたいと思っています。
comicoで学んだことを紙の媒体でも行うならどんなことができるのか、今すごく興味があります。
もちろんアレンジは必要だと思っていますが、いろいろと実験していきたいですね。
反対に紙で学んだこともcomicoにも取り入れていきたいです。 
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▲野中さんが参加している同人誌


―――両者を行うことでお互いに良い作用が働き、新たな発見がありそうですね。
ところで、お休みの日は、どんなことをされているのですか?

野中さん: 基本的には出歩くことが好きなので、人に会って話を聞いたり、
喫茶店でコーヒーを飲みながら近くの人の話を聞いたり……
結局、仕事のときと同じようなことをしていますね(笑)。
趣味といえば、最近は、アマチュア演劇を見ることが好きです。
実は、伊勢レイジのモデルは、いろんな舞台に参加しているフリーの役者の友人で、
彼の舞台を見に行くうちにこの世界が好きになって、他の劇団の舞台も見るようになりました。
アマチュア演劇の世界は、書店以上に人間臭いドラマがたくさんあるんですよ。
これもいつか漫画にできないかと思っています。

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▲ハイジのライバル? 伊勢レイジ


―――すべてが、漫画につながっていますね。
お話を聞いていると、やっぱり外に出ることが重要だと再認識します。

野中さん: 漫画家なのにこんなことを言うのも何なんですが、私は、家にいることが好きではないんですよ。
だから、実際に漫画を描くことも外で行うことが多くて、作業道具は家用と外用に分けて2つ用意しています。
喫茶店などでネームやプロットを考えることもありますし、
集中したいときは自習室を借りて色塗りまで行ってしまうこともあります。
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▲野中さんのお出かけセット。外出先で漫画を描くときは、必ず持参するそう。


―――夢を教えてください。

野中さん: 漫画家として成功したいです。
そして、過去の自分のようにくすぶっている人を助けてあげられればと思っています。
それは、自分が漫画家としておもしろい作品を届けることはもちろん、
アシスタントとして雇って成長させることでもできるのではないかと思います。
同じcomico作家で「ジャストポケット!」を描いていらっしゃるすねやかずみ先生のように
漫画家が活躍できる場を作り、講師として後進を育成することにも興味があります。
とはいっても、私には、まだまだそんなキャリアも技量もまったくないので、
まずは、漫画家として一人前になれるよう精進したいです。


―――最後に読者のみなさんにメッセージをお願いします。

野中さん: 私は自分がつらいとき、漫画、小説、音楽などに支えてもらい、今があります。
だから、今度は、自分の作品がみなさんの力になることを願い、
同世代の読者が主人公になれるような作品を目指し描いています。
主人公になっていただき、辛い時や迷った時の助けになれれば、こんなうれしいことはありません。
さらに数年後(成長して幸せになった頃に)読み返して「こんな青臭い時期もあったなぁ」と
懐かしんでいただきたいです。 
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▲野中かをるさん

【 インタビューを終えて 】
29歳といえば、人生に迷い、悩み、「これで良いのか」と考え直す時期。
作品を読み、身につまされる思いを感じる方、
過去の自分を思い出して懐かしく感じる方も少なくないのではないでしょうか。
作者の野中さんも同世代で、主人公と同じような苦しい経験をしていますが、
それを乗り越え、すべてを人生の糧にしています。
そんな野中さんからは、経験を重ね、そこから学びを得た人にしかない大人の魅力を感じ、
それがそのまま作品の魅力につながっているように感じました。
「『失格人間ハイジ』は、最後のチャンスだと思っているので、
出し惜しみせず、できることは全部やっているから、
ハイジが終わったら、何をしたら良いかわからなくなりそう」と笑顔を見せる野中さん。
きっと、その頃には、今までにしたことがなかったようなご経験をされて、
それらを元に、リアリティに満ちた新しい作品を生み出されるのではないかと思いました。
ハイジの連載はもちろん、新作も楽しみです。野中さん、ありがとうございました!


●作品紹介
失格人間ハイジ(連載中:毎週金曜日更新)
小説家の夢に破れ、バイト先に契約社員として就職した書店員・灰澤修治29歳。
恋愛や人生に様々なコンプレックスを抱えた彼が恋をした相手は、
自分より収入が高そうな女性だった・・・


●作家プロフィール
野中かをる(のなかかをる)
東京都生まれ。漫画家。
大学卒業後、和菓子屋の店長、書店員を経て、現在、comico作家として活躍中。
著書に『ためらい逢瀬』、『アネモネとさようなら 』、
『ツキカゲ骨董品店』(全てソニー・デジタルエンタテインメント)がある。
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